声明「教育改革+入試改革」に学習塾はどう対処するか ~2017年11月~

◆学校教育と生徒への深刻な影響

①「学力の質的転換」は時代の趨勢で、大学入試がいつどのように変わるかにかかわらず、二一世紀の社会のために学校も塾・予備校も対応せざるを得ない。 しかし、決定的な問題点がある―第一に、基礎基本の徹底的習得なくしては「深い学び」を達成することは出来ないが、当局案にはそのための条件整備が伴っていない。第二は、中~下位層になるにつれ「思考力・表現力・判断力」の教育は重荷になって、いたずらに学力差を拡大してしまうことである。

②入試改革20年の新学習指導要領の実施とその浸透をまって実行すべき施策であるにもかかわらず、はじめにスケジュールありきの強行策なので、実施段階になると次々に欠陥と問題点が露呈するであろう。

③英語教育の分野が入試改革で異様に突出している。経済のグローバル化を錦の御旗にした「英語教育の4観点追求」路線である。教育現場は無理難題に苦しむ。

④こうした「教育改革+入試改革」を急ぐ理由は、社会の行き詰まり打開に苦慮する政権と財界の危機感の深刻さである。それを承けて文科省や審議会のメンツ、そして少子化に苦しむ教育団体の利権拡充が推進力である。(教育の市場経済化)

⑤経済成長のための「人材育成」が目的となり、学校も生徒も「選別と淘汰」の渦中に置かれ、中間層の崩壊と中下位層の切り捨てが進み、その結果、社会の分断と格差の拡大とが促進されるであろう。

⓺もう既に多くの学校において、求められる「学力の転換」をこなしきれない状況が拡がり始めた。改革を進めようとしてもできない学校や、行き過ぎ、あるいは見掛け倒しの上滑りな教育が横行すると予想される。 その過程を通じて、学校の序列の再編、淘汰・選別がいっきに進むであろう。「悩める学校」「自己変革できずに苦しむ学校」は、教育改革案の修正を求めながら「側面からの支援」を切望している。

◆学校への地域の支援、その中で学習塾はどうすべきか

①学校の授業は形骸化したアクティヴ・ラーニングで追われ、教師も生徒も負担過重に苦しむ。学習の未消化」あるいは「脱落」が拡がる。教師はじっくり生徒と向き合う時間的精神的余裕を失い、中下位層の生徒の二極分解が進む。その結果「荒れる学校」や「学びを放棄する生徒」の多発が避けられなくなるであろう。 病める学校、病める社会からは、病める青少年がさまざまな形で大量に生み出され、しかも深刻化すると予想される。

②この難題をどうすれば解決できるのか――学校と家庭に対する「地域からの支援」が、これからは不可欠になる。それらのサポートがあってはじめて学校教育の質的転換を促す道が拓かれ、二十一世紀の社会を支える新たな地域共同体を形成する力になる。 ただ、こうした学校の抱える難題にかかわるサポート活動は多様化・高度化を求められている。 文科省のいう「開かれた学校」の理念だが「学校=生徒=家庭」の三位一体構造にかかわる専門家や諸活動の自発性に期待して、政治・行政の組織支援施策に委ねるだけでは済まないのではないだろうか。

③私たち「地域に根ざした学習塾」は通塾する生徒を通して家庭にも学校にも、生徒の就職する地域の産業にもかかわっている。地域社会で信頼される存在でもある。社会の危機や教育の大転換に際して家庭や学校と結ぶ活動を展開できる位置にある。 ただし兼ね備えるべき条件と能力を有しているかどうか、自己点検が必要になろう。―地域社会の土台とつながる積極的な活動体であること、何らかの「得意技」を持っていること、とりわけ時代にマッチした専門性。しかも学校の教師に比べてリーダーもスタッフも能力面でも志の面でも優れていることが望ましい等々―これらの要件である。

④現在の大半の大手塾は市場競争の申し子だから「儲かればよい」企業体であり教育の市場経済化の生む病根に立ち向かうことは本質的に難しい。中小零細の塾にしても近隣の他塾との間で生き残るために日夜必死の闘いを続けており、活動余力は持たない。 だがその中にあって個々の生徒への対応力のある地域密着の小規模な塾や個人塾に注目していただきたい。 ひとつひとつは微力な存在であってもネットワークを組めば、それぞれの得意技を活かした連携プレーが生まれ社会の負託に応え得るであろう。(塾の会・愛知の設立の理念)

⑤私たちは、できること、しなければならないことを、各塾が身の丈に応じて誠実に真摯に実践することにしたい。学校教育の基軸の変革がうまく進まない状況下では、地域の学習塾が「教育の歪み」を矯正する学習支援活動を担っていくことにする。学校と塾がそれぞれの役割を分担し、対等の関係で連携したい。またゼロサムゲームである生徒獲得・合格実績競争にいたずらに手を染めないことが肝心だと考える。合格は良い教育の結果であって目標にはならないからである。 生徒に接する学習指導の基本は――

 ・出来る子には「考える力」をのばす
 ・普通の子には「基礎基本」の習得の徹底
 ・できない子には「生きるための基礎づくり」
 ・将来のため「生きる問題意識」を育てる

⓺また、学校教育の暗部拡大によって生じる病理に対処できる態勢を持たなければならなくなっている。

・不登校、ADHD、LDなどの学習支援
・貧困家庭の子どもの受け入れ
・合格実績競争のもたらす不合理な進路指導の是正
・関係諸機関を結びつけるコーディネート
・卒塾後も面倒をみる態勢

⑦学校との連携に加えて、教員組織や教育委員会、さらに他の諸団体との協調的連携を模索していくことが必要になる。塾の会・愛知はその結節点になる覚悟である。 >

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「良い“新テスト”をじっくり検討せよ」 ~2016年7月~

 高大接続システム改革会議の提示した「二本立ての新テスト」は、大学および高校関係者などの賛同を得られず、未解決の課題をいくつか提示したままで「藪の中」に入ってしまった。困っているのは学校関係者ばかりではない。数年先に「新テスト」を受けるものと思っていた生徒たちも困惑するばかりである。私たち「塾の会・愛知」は悩める生徒の気持ちを代弁して、次のような見解を関係当局への要望として、また教育関係者との意見交換として申し述べたい。

㈠記述問題を含む新テストは学習指導要領改訂の後に

 改革会議の示した「記述問題例」を塾生に取り組ませたところ、小中高の授業で「考える力」を育てる取り組みを経験してきた高学力の塾生以外はまったく対応できなかった。それは上位層の選別育成にばかり力を注ぎ中~下位層を置き去りにする「未来の構図」を予想させるものであった。
 多くの高校教員の間では、このような新テストになったらもう自校生を受験させることは無理になる、と嘆く声があがっていたし、もう一方では、商機到来とばかりに新しい教材や指導法の開発・売り込みを始めた業者・予備校や対策授業に着手した私立進学校も出始めている。
 思考力・表現力の育成は、小中高にわたる長い教育課程で培われた基礎基本の分厚い積み上げを前提に成り立つもので、高校3年の新テスト対策の受験授業で達成できるものではない。拙速で実施されれば、受験対策に長けた一部の高校や教育投資のできる家庭の子女だけを利することになり、学力差と学歴差別を広げることになりかねない。拙速の方針を撤回し、新しい学習指導要領が根付いてから、その検証と発展を兼ねて実施すべきである。

㈡改革は高校で普通教育の完成をめざすことを前提に

 これまで学習指導要領が改定されても高校現場の多くは「知識詰め込み、受験向け速習前倒し」のカリキュラムに走り、指導要領は形だけの指針になりがちであった。「入試が学力を規定する」現実に正面から立ち向かった今回の改革は大きく評価されるべきだが、半面、新テストによって教育内容を転換させる即効薬にしようと試みる思い付きには、短慮浅慮と評さざるを得ない。
 改革会議の工程表どおりに4年後にセンターテストを廃止して新テストに移行するとなれば、来年から変わる高校の教科書を履修した生徒は、三年の秋からもう新テストの記述試験部分を受けることになる。公立・私立を問わず合格実績競争に巻き込まれている高校が、思考力・表現力を育むアクティブラーニング型の授業実践にじっくり取り組むことをはたして期待できるであろうか。また、新テストの圧力におびえる高校生が、「薄っぺらな学力」で済むセンターテスト対策勉強をみずから改めて、「じっくり考え、問題意識を育てる学び」に自主的に転換することも期待しがたい。
 資質育成をめざすカリキュラム・マネジメントやSGHあるいはSGUの推進などの施策が同時並行で推進されようとしているが、いずれも選別育成の機能を重視しすぎている。今日もっとも問題になっている「中間層の崩壊=中下位層の“学ぶ意欲”の崩壊」を食い止めるため、高校教育の主体性の回復を改革の中心に据えるべきである。高校教育は大学の準備の過程では決してない。かけがえのない思春期の人間形成=普通教育の完成期であることを、もう一度原点に据えなおす必要があるのではないか。

㈢入試改革は上位層の選抜に偏ってはならない

 愛知県の高卒生の就職率は一九%にとどまり、普通科・専門学科あわせて大学短大に六六%が進学する。成績が下位三割に位置する層でも大学~専門学校に五五%が進学し、中位四割の層では八五%が進学している。
 学力構造も卒業後の進路も大きく分かれることは高校段階の宿命であるが、この数値は昨今の世の流れを雄弁に物語ってくれる。必ずしも大学全入のせいではなく、進学率上昇の背景には社会の変貌と将来への不安が影響しており、家庭に経済力さえあれば子弟の学力にかかわらず高等教育に望みを託す家庭の意識をみることが出来る。 経済のグローバル化や産業構造の高度化に対応できる人材育成の必要性から大学教育の改革が進行しており、専門教育でやっていける学力を高卒生に求める観点から「高大接続」の要請が強く求められ、「入試の選抜機能の強化」も主張されている。
 だが、高等教育進学希望者の学力は上位から下位まできわめて幅広く、その人生設計も多種多様であるため、大学等からの要請と高校教育の抱える課題解決とを同時に満たす最適解を見出すことは難しく、改革会議は議論を深めることを避けて短絡的な結論を下してしまった。すべての高校生を対象にする「基礎学力テスト」と上位層の選抜機能を意図した「大学入学希望者学力評価テスト」とを併置する分離案を提起したため、難度の高い後者を受験できるかどうかで高校も高校生も上下に分別されざるを得ない。 極めて広範な高校生が高等教育への進学を求めて入試戦線に挑もうとするのだから、その意欲とエネルギーを社会発展の水路に導くのが本筋であるのに、中~下位層の受験を門前払いするとしか思えない制度案には疑問を抱く。
 発達したCBT(コンピューター)技術とIRT(項目応答理論)とを併せて活用すれば、学力の最上位層から下位層まで、就職希望者であれ難関大学志望者であれ、誰でもいっしょに受験できる「学力達成度テスト」が実現可能な時代になっている。例えば、最初の十数問の基礎的問題群の出来によって次の段階の複数種類の問題群を指定する仕組みをとれば広範な層をカバーできるはずである。さらに問題のプールと等価分類が進展すれば、段階評価も複数回受験の制度も可能になる。未踏の分野の探究に踏み出すべきである。

㈣格差拡大と社会階層の固定化を避けねばならない

これまで日本の社会は、努力すれば階層間移動の可能性が高いことで公平感と活力とを保ってきた。しかし今回の入試改革はその可能性を崩す危険な機能をもつ。選抜機能の偏重は社会の統合性を損ねるのではないかと危惧する。
 中下位層が受験することすら難しい試験を導入するのか、それとも学力差の大きいことを抱擁力の高い仕組みでもってカバーし誰でも受験できる仕組みを模索するのか。この選択は社会のあり方をめぐって教育改革がどのような役割を担うべきなのか。決定的な分岐点になるのではないだろうか。

 ★結論として提言します――二つのテストを併置せず「基礎学力テスト」に一本化し、IRT理論を活用して基礎的思考力まで測定できるように拡充し、教科数も増やして「高校で達成すべき標準的な学力達成度」測定に目的を絞る。同時に、「合否判定機能」をはずし、「履修認定」と大学等の指定する「出願要件確認」に機能限定して、就職希望者から上位大学志望者まで幅広く受ける総合テストにすべきだと考えます。社会のあり方にかかわる問題ですから、広く国民的な議論に拡げていただきたいと思います。

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提言 ~2015年11月~

 中教審の「一体改革」答申(平成二十六年一二月)を承けて、大学入試改革をめぐり新設された「高大接続システム改革会議」は「高校基礎学力テスト」と「大学入学希望者学力評価テスト」を2本立て併置して複数回受験させる案を「中間まとめ」として発表しました。
 塾の会・愛知テスト委員会はその案を検討しましたが、中学~高校教育に大きな弊害を生じる恐れのある制度だと判断しましたので、反対の意見を当局に表明いたします。また、広く教育関係者や生徒・保護者の皆さんに知っていただくためにこのホームページに掲示いたします。

「格差を拡げる教育改革を再検討しよう」

 このところ私たち地域の学習塾には「学校の授業がわからない」と悩んで相談に来る中・高生が増えてまいりました。ひと昔まえまでの「学校で基礎基本を学び、塾では将来の受験めざして勉強する」役割分担がまるで逆転した感があります。「わかるまでじっくり教える」「考える力を育てる」授業はいまや合格実績を競いあう学校教育から消え去って、心ある学習塾や限られた学校にしか残っていないのでしょうか。 この風潮を放置すれば、青少年の学力の上中下三極分解がすすみ、学力中~下位層の崩壊が進行しかねません。大きく変わりつつある二十一世紀の「知識基盤社会」を乗り切るための教育改革においては、これからの社会を切り拓いていけるすぐれた青少年を育てる要請と、拡がる格差のなかで中~下位層が生き抜いていけるように「底上げ」する要請と、これら両立の難しい課題をともに結びつけて進めていかねばなりません。  

 高校教育はいま深刻な壁に突き当たっております。共通一次試験のスタートから四十年ちかくを経た今日、これまでの問題点をあらい出して、社会の土台になる教育を築き直す改革を急ぐことに異論はありません。しかし、学ぶ意欲と学力の格差が拡がった深刻な事態を日々の教室で直接体験している現場実践家の感覚から見ますと、コロコロ変わる教育の指標や行き過ぎた指導要領の提起は消化不良の病根を蔓延させてきました。
また、目先の市場ニーズに応えるだけの視点から高度な専門人財の育成に偏った教育改革を進めれば、かえって全体の学力格差を拡げ、「荒れた学校」「中退者やニートの増加」など社会の病理を生み出しかねません。
教育のありかたは、私たちがどのような社会を築こうと願っているのかに関わる問題です。関係者のみならず広く国民的な議論を深める時期になったのではないでしょうか。


「二本立ての新テスト案に反対する声明」

大学入試改革について高大接続システム改革会議の中間まとめに示された「新テスト二本立て」案の撤回を要望したい。知識偏重の入試と受験教育化した学校教育を変えようとする意図は理解できますが、原案通り実施されますと大きな弊害が生じます。私たち塾の会・愛知は次の理由により「二つの新テストを併置する案」には反対します。

第一は、高校までの教育の質的転換を新テストの圧力で促すことには賛成しますが、「合否判定機能」を存続させる限り学校ではこれまでのセンターテスト対策・過去問中心演習と同様の対策授業が再生産され、「問題発見・解決型の学力」「グローバル人財」育成の教育に必ずしも転換しないのではないでしょうか。公立・私立とも合格実績をめぐって熾烈な競争を繰り広げる風潮が相変わらず続き、成績上位層は「受かればよい」指導のもと受験勉強に没頭し、中下位層は「一体改革」の目指す新しい質の授業や評価についていけなくなり、いずれも「薄っぺらな学力」のまま大学~専門学校に進むことになります。

第二は、高度な人材育成は大学等の課題ですから、高校までは「生きる基本になる教養」をしっかり身につければよいと考えます。ほとんどの中卒生が高校に進み高卒の八十%が進学する時代になっていますから、中学・高校の教育で多様な進路への全面的・直接的な接続を狙えば、教育制度は四分五裂します。高校段階で将来の人生設計別にコースを分けてしまうことには無理があり、また、大学がその専門教育の前準備を高校教育に求めることも筋違いです。大きく拡がった学力差と生徒構成に応じて各高校が「普通教育の完成と職業教育」の工夫に努めることが唯一の解決策ではないでしょうか。それを前提にすれば「大学入学者選抜」に多大な「高大接続機能」の役割を盛り込むのは非現実的です。大学は募集形態を変え、大ぐくりの学力をみる多面的測定テスト「基礎学力テスト」の成績を利用して初年次教育で専門教育との接続を図るべきです。

第三に、大半の高3生は年間5~8回の考査と6~11回の模試を受けていますが、その高校教育に複数回受験の新テスト二種が割り込めば、高校はこれら公的テストに追い回され、本来の責務である「社会を支え未来を生き抜く力」を育む教育が疎かになります。「考える力」を育てる様々な教育課程の試みを手掛けることも難しくなることでしょう。「二つの新テスト併置」がもたらすテスト漬けスケジュールの圧迫は取り除かなければなりません。

第四に、難度の高い「大学入学希望者学力テスト」を別立て実施すれば受けられる生徒は限定され、センターテストで55万人にまで拡大した受験者は半減すると予想されます。生徒も学校も上中下に分類選別され、この入試制度によっていっそう階層化が進み、中下位層の崩壊を招き社会的格差の拡大を助長するのではないでしょうか。

結論として提言します。

 二つのテストを併置せず「基礎学力テスト」に一本化し、IRTを活用して思考力まで測定できるように拡充し、教科数も増やして「高校で達成すべき標準的な学力」測定に目的を絞る。同時に、「合否判定機能」をはずし、「履修認定」と大学等の指定する「出願要件確認」に機能限定して、就職希望者から上位大学志望者まで幅広く受ける総合テストにすべきだと考えます。


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